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OUR STORY

旧竹中精麦所跡:撮影 平成30年/昭和39年頃

創始者: 竹中 亀吉(大正期)

​ 疏水から直接引かれた白川と別の水路が現在の時忘舎敷地を突っ切り水神の稲荷裏(三谷稲荷)で白川に合流しています。この水路は、明治23年(1890年)第一疏水の完成と同時に使用申請が出された水車水路の一つです。当時は公共及び商用にしか使用が許可されませんでした。

 

 使用申請者から権利が転売されること5代、水路石組みを改修し工場を新築して竹中亀吉が大正6年に水車動力による竹中精麦所を立ち上げます。当時は3メートル程の大きな水車が80基の臼を動かし精麦を行っておりました。当時その水車は現在の東山三条あたりからも見えたといいます。

 順調に商売を営んでいましたが息子の代となり日本が第二次世界大戦に突入し、食糧管理令下で経営継続ができなくなり、昭和16年に竹中精麦所は廃業せざるを得なくなりました。

 その後建物は借家業や工場のアパート転用により生き延び、昭和50年代まで全容が残っておりました。その後、老朽化で閉鎖された建物を取り壊す可能性もありましたが、岡崎文化的景観要素として文化庁の保存要請もあり、『京都近代産業化試みの地』に名残となった唯一の街工場跡として改修を決断いたしました。

 明治期、疏水から引かれた一本の水路からスタートし、大正・昭和を経て平成の現在、新しい姿となった建物は「時忘舎」として新たな役割を与えられ、今までと同じく白川沿いで時代の流れを見つめながら佇む事と思います。

 

 傍らに流れる川、水路、界隈の風景を今一度この歴史を思いながら、少し歩みを緩め、眺めていただければ大変幸いです。現在名物になりつつある白川沿いの桜並木も、故人である3代目竹中守男により提案され植樹されたものです。環境をよりよくする活動は1代にとどまらず継承されていくものと強く信じ、次世代、その次の世代へより良い環境を遺すべく事業を進めてまいります。

 

時忘舎建物前を横切る水路

(深さ1.6M)

※時忘舎HPではこの界隈の歴史を知る資料として、こちらに掲載させていただける写真を募集しております。古き時代の貴重なお写真を共有させていただけるようでしたら、是非ご連絡ください。お写真の資料ソースは必ず掲載させていただきます。
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